黒川温泉について黒川温泉は熊本県阿蘇郡南小国町(旧国肥後国)にある温泉。阿蘇山の北に位置する。近年、一躍脚光を浴びマスメディアなどでの温泉ランキングで日本一に選ばれたりするようになった、南小国温泉郷の一つで、広義では阿蘇温泉郷に含む場合もある。 黒川温泉へのアクセス公共交通の便は悪く、熊本市、別府市などからの長距離バスまたは自家用車を利用することになる。 やまなみハイウェイにも近い場所にある。 黒川温泉の泉質硫黄泉 - 温泉街の比較的浅い(20メートルとも)地層から80度 - 98度の源泉が湧いている。 黒川温泉の温泉街温泉街にありがちな歓楽的要素や派手な看板を廃し、全体に統一的な町並みを形成するなど、意欲的なマーケティングを行っている。有名になったのは、2000年以降である。 基本的に全旅館に露天風呂があり、旅行者は「入湯手形」を購入することにより、ほぼすべての旅館にある露天風呂のうち3カ所を選択的に入浴することができる仕組みになっている。 リピーターが多く、予約を取ることが難しいと言われているが「黒川温泉旅館組合」0967-44-0076で、旅館の満空情報や紹介を受けることができる。 黒川温泉の伝承温泉としての歴史は古く、以下の伝説がある。ある日、豊後国の甚吉という男は、瓜を盗んだことで首を刎ねられそうになったが、それを免れた。代わりに身代わりに信仰していた地蔵の首が刎ねられてしまう。そこで、村人はそれを甚吉地蔵として崇拝するようになった。ところが細川藩士の中にこの地蔵を持ち去ろうとした男がいた。だが、ある場所に辿り着くや、突如として地蔵が重くなり動かなくなる。男は諦め、地蔵をその場に放置すると、村人は岩場に奉祀することにした。すると、その岩の裂け目から湯が噴き出、村人の浴場となったという。このいで湯こそ黒川温泉の発祥であり、今も地蔵湯と地蔵の首が残っている。 黒川温泉活性化の歩み黒川温泉は口コミやネットで広がり、様々なメディア媒体を通して、今でこそ最も人気のある温泉地の一つまでに成長したがその歩みを振り返ってみよう。 黒川温泉は、もともと山あいのひなびた湯治場であった。旅館の経営体も農家兼業が多かった。 再興の契機となったのは、国民保養温泉地※の指定とやまなみハイウェイの開通であり、交通アクセスの改善によって一時は盛り上がりを見せたが、客を引き留める魅力に薄れ、再び客足が遠のいてしまう。 1964年(昭和39年)10月のやまなみハイウェイの開通により一時的に入込客が急増した(ちなみにハイウェイ開通は東京オリンピック開幕の一週間前)。農業等異業種からの参入も含めて、現在も営業している旅館のいくつかがこの前後に開業した。 しかし、その「効果」も長くは続かず、ふたたび閑古鳥が鳴く温泉地へ逆戻りした。寂れに寂れ、温泉街の存続さえ危ぶまれていた。 昭和53年頃から旅館への養子縁組やUターンで若者が入り始める。ただ、この時期は将来の展望が開けていたわけではなく、休日以外はお客らしい客はなく、不安を抱えていた。当時、温泉地でありながら湯を楽しむ客よりも宴会客中心であり、旅館主の最大の仕事は九州各地へのバスのハンドルを握ってのお客の送迎であった。 昭和58年、ふもと旅館の松崎氏が現職に反旗を翻す形で南小国町長選挙に出馬したが、落選。松崎氏は失意のうちに亡くなったが、後に尾を引くことになった。 新明館の後藤哲也氏は、当時まだ旅館経営の実権は握らせてもらえていなかったが、人々に「癒し」と「くつろぎ」を求めたいというニーズ、自然の中で開放されたいという欲求があることを見抜き、それには露天風呂が最も適していると確信を持つ。一人露天風呂を作ろうと決意。旅館敷地内の山肌に向かい、洞窟風呂の製作に着手する。 もう一つは樹を植えたこと。作り込んだ日本庭園ではなく、野の山を再現しようとした。 やがてこれが評判になり、新明館は盛況となる。しかし、当時、他の旅館主の受け止め方は「あそこは立地がよいから・・・」という程度の認識であり、依然宴会客中心であった。 こうした盛況を見て、「いこい旅館」の婿養子が、後藤氏に教えを乞う。(婿養子ならではのフットワークのよさとカメラ店を経営していた経歴から、気軽に聞くことができたのが幸いしたといわれている) 昭和58年6月、「いこい旅館」に女性専用露天風呂を開設、「美人の湯」として女性に評判になる。以後、各旅館に露天風呂の開設が相次いだ。 客を引き留め、リピーターを確保できる、黒川温泉のセールスポイントは何かを摸索した結果、候補として挙がったのが露天風呂と田舎情緒であった。また、単独の旅館が栄えても温泉街の発展にはつながらないと考え、温泉街一体での再興策も練られるようになった。その他、様々な案が浮かび上がっては消え、試行錯誤の連続であったが、1983年から入湯手形による各旅館の露天風呂巡りが実施される。もっとも、この企画も大々的なPRを行わず、後は口コミによる観光客増加を待つのみであった。また、この頃は修学旅行生も頻繁に受け容れており、手頃さも売りにしていた。そういった地道な活動の結果、今に見る隆盛に漕ぎ着けたのである。 総ての旅館の協力のもと、「入湯手形」により、日帰客も含めて、何処の露天風呂も入れるという仕組みは、画期的であった。この企画が大ヒット、話題となって、黒川温泉が人気温泉地として飛躍するきっかけとなった。 今や黒川温泉といえば、「入湯手形」だが、その誕生のきっかけは次のとおりである。 昭和60年7月、組合で野沢温泉を視察、外湯めぐりにヒントを得る。 一軒のみどうしても露天風呂が作れない旅館があり、「共生」を理念とした湯めぐりの発想が沸く。 昭和61年「入湯手形」をスタート。ただ、旅館組合でも確たる見通しがあって始めたわけではない。実際、開始当初は「手形」が捌けず、各旅館に割り当てて引き取ってもらうことすら考えた。 同年秋頃から全国的に秘湯ブームとなり、次第に軌道に乗った。 昭和61年12月の熊本日日新聞の広告企画で、熊本県内でブームになった。この時に、それまでそれぞれの露天風呂に「○○の湯」という愛称をつけることにした。 昭和62年2月、個々の旅館の広告看板を撤去、マスコミを招き報道してもらう。 以後、福岡地区等でキャンペーンを図る。 旅館組合にも「入湯手形」の販売により、一定の収入が入る仕組みになっており、組合の財政を潤し、それがさらなる環境整備、キャンペーン費用に充当できるなど、好循環を形成している。 ブレイクは情報誌 1998年に福岡の情報誌旅行情報誌「じゃらん九州発」の人気観光地調査でトップに立った。それまで知る人ぞ知るという存在であったが、一気に人気温泉地として全国的に注目を集める存在となった。 今日における黒川温泉の爆発的ヒットの一大要因としてインターネットが挙げられる。というのも、テレビや雑誌などで頻繁に採り上げられる数年前には、もう一部の温泉ファンの間で「熊本の黒川温泉が一押し」と叫ばれて、掲示板のアンケートでは常に上位を占め、知る人には知る名湯となっていたからである。 黒川温泉のまちづくりのスタンスは明確である。都会の生活に疲れ、温泉に「癒し」を求めて来る観光客にくつろぎを与え、リフレッシュしてもらうためにできる限りの演出を行うというものである。その手段として、「露天風呂」の整備や「樹を植える」「看板を取り去る」ことによる環境整備がある。一般論的にいうと、「癒しの里」というコンセプトを打ち立て、それにあわせた露天風呂等の大道具・小道具を配したうえ、「入湯手形」などの「ソフト」を活用するということになる。 こうしてみると黒川温泉では、 地域全体が、温泉と癒しというテーマに従い非日常性を演出している。 得られた利益をブランド力・イメージの強化に再投資している。 こうした点で、温泉郷自体が一つの「テーマパーク」とすら言えよう。 現在地には拡張が困難な施設が多いことから、さらに川を上った東の地区等へ新たな施設を開設する等の事例がみられる。 現在では、「手形」による日帰り客で休日を中心に混雑し、本来のお客である泊まり客がゆっくり入れない等の問題も生じている。このため、立ち寄り型の旅行会社のツアー客には「手形」を販売しないという方針を打ち出すに至っている。 以上の多くは、熊本日日新聞社『黒川温泉−急成長を読む』(熊本日日新聞社、2000年)に拠っている。 黒川温泉成功の要因コンセプトをつくりあげた(正確には、つくりあげたコンセプトの成功に賛同し、他の旅館が同調した)後藤氏が旅館後継者として居た。当初は相当「変わり者」として見られたが、弾き飛ばされることはなかった。後藤氏は旅館の三代目で先代が実権を握っていたことから、旅館組合運営への参画はかなり後になってのことらしいが、結局は後藤氏の確立した「露天風呂」をつくり「樹を植える」ことにより「まち全体が癒しの空間」を形成するというセオリーにしたがってまちづくりを行った。 後藤氏の慧眼があったとはいえ、温泉に癒し・情緒・雰囲気を求める時代の風に乗った。風に乗ってからも、マスコミの活用等、組合内に人材を得た。 他の巨大温泉郷のように、高度成長期に部屋数拡張のための設備投資に走り、コンクリート構造物だらけ、そして巨額の借入金を抱えるということはなかった。このため、看板を除去するとした手入れはあったが、温泉地としての基本的な情緒・雰囲気が保たれていた。今日、低層でかつ20室程度までの旅館がお客に目が届き、食事・湯の案内等適切なサービスを提供できる規模といわれているが、ちょうどこの規模の旅館が多い。巨大設備を抱えていると売り上げを確保するため、客室定員の「回転」「稼働率向上」が求められ、必然的にエージェント依存にならざるを得ないといわれている。根本対策は、適正規模へのダウンサイジング(規模縮小)であろうが、巨額の借入金を抱えていると、壊すに壊せず、返済のために営業を続けるという矛盾から抜け出せない。お客の満足度を維持するためには絶えざる改修が必要で、そのために借入が発生する。・・・いつまでたっても借入返済のための営業という本末転倒の悪循環から抜け出せない。 なお、渓谷に面した温泉地であり、広い空き地がなく、大きな建物を建てることができにくかったことが、今にしてみれば幸いしている。 若手の存在 黒川温泉には婿養子が多く、昭和50年代はじめから他の地で育ってきた、行動力のある人材が複数入り込んだ。こじんまりとした温泉地ゆえ、そうした人材相互の交流が自然発生した。彼らが旅館組合を通じた改革の原動力となった。折しも各旅館は世代交代の時であり、若い経営者らが一致団結し、温泉街を盛り上げようとしたのも、功を奏したといえる。 外部資本の不存在=まとまりのよさ 渓谷の温泉地であり、土地が少なく、他の地から外部資本が入って来づらかった。その裏返しとして、同業者の結束は堅い。 (逆に、突出した存在・行動を許さないという一種の護送船団方式につながる弱さを内包しているといえなくもない) 黒川温泉と行政との関係黒川温泉は従来から「民主導」であり、町行政とは一定の距離を置いてきた。活性化の過程においても、「官」としての南小国町行政の姿は見い出し難い。むしろ、黒川温泉では頼み事があると、むしろ熊本県を頼った。細川知事(当時)の日本一づくりに触発された面も大きい。とはいえ、決して県へよりかかっていったわけではない。 南小国というよりも、「黒川」のほうがはるかに高名である。 町レベルの観光政策予算では観光パンフレットの作成等で大半は費やされてしまうが、いまや全国区となった黒川温泉にとって、その程度では不十分であり、南小国町に頼ることはしていない。 ただ、温泉組合の事務所兼案内所「風の舎」の用地は町が購入し、組合に貸与していることなど、必ずしも町と疎遠な関係ではない。 特急きのさき 京都~城崎温泉間
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